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2026/01/14
馬の話 6
馬の付く諺(ことわざ)で、「竹馬の友」があります。幼いころに一緒に竹馬で遊んだ間柄と言う意味から、幼馴染を意味しますが、これはあくまで日本での解釈で、この言葉の生れた中国では意味合いが大きく変わります。
この「竹馬の友」の由来となった出来事は、古代中国の晋(西暦265~420年)で、猛将 桓温(カンオン)は、智将 殷浩(インコウ)と比べられることを不満に思い、「殷浩は昔、私が捨てた竹馬で遊んでいた奴で、私より下の人間だ」と言い放ったエピソードが由来となっており、中国でも日本同様に「幼馴染」と言う解釈で使用されることもある中で、「昔からのライバル」「自分より下の人間」と言った解釈でも、使用されるケースが多いようです。
ちなみに「竹馬の友」の竹馬は、小学校の校庭の端っこで、一輪車と一緒に校庭の隅に置かれている足載せ式の竹馬ではなく、張り子の馬の頭に竹の棒が取り付けられ、もう片側には車輪が付いていて、子供がまたがって楽しむ春駒と呼ばれる古い玩具を指します。
春駒は、平安時代後期~鎌倉時代前期に大陸より伝来し、江戸時代前期、庶民の子供向けに爆発的にヒットしました。当初は子供向けの玩具でしたが、次第に子孫繁栄や五穀豊穣、家内安全、商売繁盛などの縁起物と変化を遂げました。
さて、玩具だった春駒が縁起物に変化した理由として、柳田国男氏の『遠野物語』で語られる「オシラサマ」が大きく影響しています。
父と娘の二人暮らしの農家があり、牡馬を飼っていた。娘と馬は一緒に納屋で寝るほど仲が良かったが、次第に相思相愛となり、娘と馬は夫婦となった。しかし、それに憤慨した父は、馬を、桑の木にくくり付け、首を切って殺してしまう。娘が馬の首を抱きかかえ泣いていると、馬の首は天へと飛んでいき、娘も馬の首と共に、一緒に天へと消え去っていった。消え去る直前に娘は父に「庭の臼の中に父を養うものがある」と言い残しており、確認してみると馬の首を持つ虫の幼虫がおり、桑の葉を与えて養った。その虫が蚕である。
上記のエピソードを含め、蚕業は雪深い地域における冬季の貴重な現金収入源だったことや、家を受け継いでいく男児が楽しく遊ぶ春駒は子孫繁栄の象徴となった事から、春駒が縁起物として変化を遂げました。
2026/01/13
馬の話 5
馬が登場する熟語で有名なのは「馬耳東風」で、「他人の忠告や意見を気にせず、聞き流すこと」を意味します。元々は、古代中国の李白の詩に由来し、
吟詩作賦北窓裏 萬言不直一杯水 世人聞此皆埠頭 有如東風射馬耳
北側の窓にもたれかかりながら、詩を吟じて
作られた様々な名言や格言も、一杯の水にすら値しない
なぜなら、世の中の人々は、それらの名言や格言を理解しないからで
馬の耳に東風が吹くように、気にも留めないからだ
…と、言った内容です。
東風と言う日本人に馴染みの少ない風について説明していくと、そもそも風には、季節によって強弱はあれども、季節を問わず年間同じ方向に吹く恒常風と、季節によって吹く方向の変わる季節風があり、東風は恒常風に分類されます。
そして、日本周辺の恒常風では、日本の北海道や東北地方を中心に西から東に吹く偏西風と、沖縄や南西諸島付近を中心に東から西に吹く風の貿易風(東風)があります。
しかし、東風と言われても、三国志の赤壁の戦いなどに登場はしますが、日本では本州には直接的な影響が非常に少ないため、知名度は偏西風に比べて非常に低く、日本で東風と言えば、麻雀のイメージが強いです。
ここで麻雀の話を少しさせてもらえれば、少し前に、二盃口を始めてあがりました。
しかし、二盃口が難易度の割に、3翻しかないのは納得がいかない。なんせ、二盃口は鳴き(チー)を使用すると成立しない門前限定の上、二盃口が確定する上り牌が単騎待ちとなるためです。
清一色が門前で6翻あります。その上で、二盃口は門前限定で、他の役との絡みも、1翻の断么九くらいと少ないので、やはり5翻は欲しい。
そりゃ小三元は2翻で十分。小三元には、1翻の役牌が2つも確定で絡み、さらに門前で3翻の混一色、2翻の三暗刻、2翻の対々和、運が良ければ役満の字一色までも、絡みやすいので納得できます。
しかし、やはり、二盃口は5翻は欲しい…と思う、今日この頃です。
2026/01/09
馬の話 4
馬であれば「じゃじゃ馬ならし」と言う言葉があります。日本のドラマにおいては、中井貴一・観月ありさが主演した平成5年のドラマで「じゃじゃ馬ならし」があり、不幸が続く隆一郎(中井貴一)の元に、義理の娘と名乗る夏美(観月ありさ)が現れ、暗躍の末、隆一郎を失脚させた勝二(草刈正雄)にリベンジを果たし、最終話で二人は結婚式を挙げる…と言った話です。
そもそも、「じゃじゃ馬ならし」は、元々はシェイクスピアの喜劇『The Taming of the Shrew』が元となった言葉です。
シェイクスピアの原題の『The Taming of the Shrew』は、日本語に直訳すると「気の強い女の調教」ですが、邦題に翻訳される際に「じゃじゃ馬ならし」と変わりました。
美人ではあるもののお転婆で活発、さらに荒々しいカタリーナを、男らしいペトルーキオーが色々と策略や努力を重ね、甲斐甲斐しい世話好き女房に変えていく内容の喜劇です。
この「じゃじゃ馬ならし」の「じゃじゃ」はオノマトペで、ジャンジャンと太鼓が叩かれる音や、セミなどが喧しく鳴く擬音、多数の人間が集まり騒がしい様を表し、子供などが我儘を言う様を「じゃじゃを言う」に転じました。
さらに「じゃじゃ馬」となると「人に慣れていない荒々しい馬」を指す言葉に変わりますが、それを転じて「人の言う事を聞かず、勝手気ままに振舞う人」となり、とりわけ昭和の時代背景が伴った結果、「活発でお転婆な女性」を指す言葉として現代では使用されることが多くなっています。
ちなみに、平成5年の出来事を抜粋
・ 日本サッカー「ドーハの悲劇」
・ チャゲアス「YAH YAH YAH」がダブルミリオン
・ 映画「ジュラシックパーク」公開
・ ドラマ「ひとつ屋根の下」が視聴率37.8%の大ヒット
・ 冷夏の影響で「平成の米騒動」が発生
・ 「ナタデココ」が空前の大ブーム
2026/01/08
馬の話 3
馬が使われる言葉で、やはり使用比率が高いのは「馬鹿」語源は複数あり、秦の趙高説はそれなりに有力です。
『史記』において最悪の宦官とされている趙高は、始皇帝の死の際に遺言書を偽造したり、本来の後継者の●●を暗殺したり、秦を支えた有力武将の●●を冷遇し、北部へ左遷し、最終的に死に追いやったり、邪魔者となった法学者の●●を処刑したりと、自らの権力を維持するため、それまで秦に仕えていた有能な法学者や有力な武将を排除し、暴虐の限りを行った結果、秦は統一から15年で崩壊してしまいます。
●●は、漫画『キングダム』のネタバレになるため、敢えて隠しています。
しかし最近、『趙正書』において、今まで史実とされてきた上記内容の大半が否定されており、実際に趙高が原因で秦が滅びたかは少し否定的にはなってきています。むしろ晩年の始皇帝の悪魔的ムーヴが秦崩壊の原因とも言えるのですが、秦時代の研究はまだまだこれからで、真実は未だ、闇の中。
さて、上記の趙高が悪の化身とされる話の一節に「馬も鹿」と言う話があります。
それは、趙高が自らの権力を試すために、幼少の皇帝に、鹿を馬と言い張って献上しました。幼い皇帝は臣下たちに「これは鹿ではないのか?」と尋ねましたが、趙高の権勢を恐れた臣下たちは「馬です」と答えた…と言う故事から、「権力によって間違いや無理を押し通すことのたとえ」として使われ、その故事が派生し「馬鹿」の語源となった説があります。
馬鹿の語源で、もう一つの有力な説は、サンスクリット語で「無知」「世間知らず」「見識が無い」などの意味する言葉に「moha」と言う言葉があり、仏典で漢字にされた際に「莫迦」や「莫何」と表記され、僧侶たちの隠語として使用されました。
それが派生して現在の「馬鹿」に変遷したものとされる説が、上記の趙高説よりやや支持されており、現在の多数の国語辞典でも、「サンスクリット語が馬鹿の起源説」が支持されています。
2026/01/07
馬の話 2
馬がつく故事で有名なのは『泣いて馬謖(ばしょく)を斬る』で、「組織の秩序を守るためには、私情を捨てて違反者を罰しなくてはならない」と言う意味合いで使用されます。この馬謖 (西暦190~228 ) は、劉備が建国した蜀に仕えた武将で、計略や軍略に優れ、諸葛孔明に高く評価されました。しかし、総大将の劉備はあまり馬謖を信用しておらず、物事はよく知っており、口は立つが、実行力はなく、現場を知っていない(口だけは達者だが、実行力や行動が伴っておらず、実経験も頼りない)と言う事から、馬謖を軍指揮官に任せてはならないと諸葛孔明に念を押していました。
しかし、諸葛孔明は馬謖を重用し、西暦224年に発生した南部の少数民族による蜂窩の際にも、諸葛孔明は馬謖にアドバイスを求めています。
さらに西暦228年に発生した魏と蜀による、街亭の戦い(第一次北伐)において、諸葛孔明は周りの反対を押し切り、馬謖を先発に抜擢し、今回の戦いの要所となる涼州の守りと敵本軍の足止めを命じました。
戦略的には、趙雲を囮として別方向に進軍させ、馬謖に敵の進軍を止めさせ、諸葛孔明の本軍で、敵の本陣を攻める方法を取ったようです。
その際、馬謖は街亭の近くの山の頂上に陣を敷きました。
しかし、これに経験豊富な副将の王平は真っ向から反対し、山から下りて、山の麓の城に留まるよう何度もしつこく説得しますが、馬謖は聞く耳を持ちませんでした。最終的に馬謖は、王平の部隊のみ、麓に降りることを許可し、その他の全軍はそのまま、山の上に留まりました。
その結果、容易に馬謖軍は、敵軍に四方から囲まれ、さらに陣を構えた山頂に水源が無かったため、馬謖軍は水源を失ってしまいました。この状況で、馬謖軍は士気が下がってしまった上に、馬謖の現場経験の不足によって、命令伝達もうまく機能せず、半ば混乱状態のまま、敵兵と水源を奪取する戦いを始めますが、結果は惨敗。
大敗を喫した夜に、馬謖は山の頂上付近から軍を撤退させましたが、撤退は敵軍に読まれており、待ち伏せにあった上に、背面からは追撃されてしまい、全軍全滅の危機に直面します。かろうじて麓に降りていた王平の部隊が陣太鼓を叩き、多数の伏兵がいるかのように見せたことで敵軍の進撃が止まり、馬謖の本軍は、全滅を免れましたが、この街亭の戦いの敗北が、蜀軍による北伐の大幅な長期化を招きました。
その後、諸葛孔明が今回の敗北の原因となった馬謖を処刑したことが「泣いて馬謖を斬る」の語源となっています。







