最 新 情 報

2026/08/03
坂と私とブッカーT 3
天王寺七坂で次は清水坂。この坂は清水寺に通じる坂です。

元々は有栖寺(うすじ)と呼ばれていた寺でしたが、1640年に京都の清水寺を模した舞台造りの本堂が建立され、寺の名前が清水寺に変わり、さらに京都の清水寺から、聖徳太子の作と伝えられていた千手観音像が移されました。

清水坂と口縄坂に挟まれた地域は夕陽ヶ丘(もしくは夕陽丘)と呼ばれています。現在では夕陽ヶ丘地区から大阪湾まで10kmほど距離がありますが、江戸時代初期までは、海は夕陽ヶ丘地区から800mほどにあり、素晴らしい夕陽が見える絶好の場所として有名でした。

鎌倉時代の歌人 藤原家隆はこの地にて、「ちぎりあれば 難波の里にやどり来て 波の入り日を おがみつるかも」と言う句を残しています。これは「前世からの縁があったからこそ、私は難波に住むこととなり、この見事な、波に沈む夕日を見ることとなったのだな・・・」と言う、素晴らしい風景に感嘆する内容です。
 
 
ちなみに夕陽ヶ丘地域の最寄り駅は、谷町線の「四天王寺前夕陽ヶ丘駅」で、めちゃ長い駅名です。

これは1970年代、東梅田駅から谷町四丁目駅までだった谷町線が、万博を控え、延線することとなり、この夕陽ヶ丘地域にも新駅が作られました。そこで問題となったのが新駅の駅名で、夕陽ヶ丘駅派と四天王寺前駅派で揉めに揉め、最終的に両方を使用することとなりました。
 
 
実は大阪は、駅名で揉めることが多く、喜連駅で決まっていたところ、駅の出口が喜連だけでなく瓜破にもあったため、瓜破の住民が反対運動を起こし、「喜連瓜破駅」と言う難読駅名の筆頭になりましたし、

元々、JR南方駅(みなみかた駅)と言う駅があった場所の近くに、地下鉄の新駅を作る際も、JRと同名の南方駅とするはずが、西中島の住民が反対運動を起こした結果、「西中島南方駅」と言う、実に方向感覚が狂う駅名になったりしています。
 
 
そして極めつけが、京阪電車の「西三荘駅」で、新駅が門真市駅と守口市駅の間に作られることとなりましたが、門真市(かどま市)と守口市は、ライバル関係でした。

そのため、門真市は「西 門真駅 に決まってるやんけ!」と声高に主張する反面、守口市からは「そんなもん、東 守口駅 やろがい!」と声高に主張し、京阪電鉄は板挟みになる結果になりました。

そして、最終的に、京阪電鉄は、新駅の名称を、新駅の下を流れる用水路の『西三荘』を駅名に使用し、「西三荘駅」としました。
 
 

356-1.png

2026/07/31
夏季休業について
8月 6日(木) 営業しています

8月 7日(金) 営業しています(工場調査実施日)

8月 8日(土) 休み

8月 9日(日) 休み

8月10日(月) 午前中のみ営業

8月11日(祝) 休み

8月12日(水) 午前中のみ営業

8月13日(木) 休み

8月14日(金) 休み

8月15日(土) 休み

8月16日(日) 休み

8月17日(月) 営業しています



 
 
※ 8月7日は外部機関による工場調査が実施となりますため、当日ご注文をいただいての当日出荷が難しい場合がございます。
 
 
2026/07/31
坂と私とブッカーT 2
天王寺七坂で次に紹介したいのが天神坂。

天神様である菅原道真公を祀った安井神社に通じる坂にあたるのでこの名前になりました。道真公が大宰府に左遷される道中にこの地を訪れた際、この地の人々が憐れに思い「粟おこし」を渡しました。道真公はお礼にと菅原家の紋所の「梅鉢」を返礼し、現在でも梅マークの粟おこしが大阪のご当地お菓子として愛されています。

天神坂も寺町にあるため、坂の両脇に、寺が立ち並びますが、先述した口縄坂との違いは道の広さ。おおよそ2倍以上の広さの差があり、更に坂の勾配も緩やかで、どことなく開放感を感じることの出来る坂です。
 
 
そして、この天神坂を記事にする中で、名前を出さない訳にはいかない、もう一人の歴史的人物が真田幸村

1615年6月3日。大阪夏の陣の天王寺の戦い。前日の道明寺の戦いにて戦局の一角だった後藤又兵衛を失いつつも、天王寺には毛利隊。茶臼山には真田隊を中心に布陣し、大坂夏の陣の最終戦局に挑みました。ここで西軍は、坂の多い地形を生かし、敵軍の布陣が伸びたところを横から叩く作戦で、毛利軍が榊原隊・千石隊などを蹴散らす中、真田隊は松平隊を撃破し、勢いそのままに家康率いる本隊を攻撃しました。家康隊は恐慌状態になり、家康は馬に乗って逃走。幸村は逃げる家康本隊に対し、3度の猛攻を仕掛けましたが、あと一歩のところで家康には逃げられ、幸村は満身創痍の状態で退却し、安井神社まで辿り着きましたが、そこで敵兵に討たれました。

安井神社の御朱印には、道真公の紋所の梅鉢と、幸村最期の地と言う文字が描かれています。
 
 
さて、日本で知名度が抜群に高い坂と言えば、長崎のオランダ坂

幕末期~明治期に長崎の人々が異国人を「オランダさん」と呼んでいたことから、外国人居留区の坂を、オランダ坂と呼んだようです。

オランダ人と言えば、世界的画家のフェルメールレンブラントゴッホはオランダ人。K-1ファイターのピーターアーツ・セームシュルトもオランダ人。

ちなみに日本とオランダは歴史的な交わりが強く、2020年にオランダは、世界各国に対し、自国の国名を、俗称のHollandではなく、正式名称のNetherlandとするよう呼び掛けましたが、『オランダ』と言う言葉が歴史的に定着しているという観点から、世界で唯一、日本だけは「国名の変更をしなくて良い」とオランダ駐日大使が日本政府に正式に提言しています。
 
 

354-1.png

2026/07/30
坂と私とブッカーT 1
かつて、大阪大坂と呼ばれていました。

大阪には上町台地があり、台地の西側に複数の坂があったことが地名の由来でしたが、明治5年。坂と言う文字は「土に返る」とも取れ、縁起が悪いとされたことから、「大坂」から「大阪」に名称が変わりました。
 
 
そんな大阪を代表する坂と言えば、天王寺七坂。

天王寺七坂の中で、私の推しの坂が口縄坂

名称の由来は、下から坂を見上げると、起伏が口縄(蛇)のように見えるためです。この坂には、大阪を舞台にした作品を多く残した織田作之助の文学碑があり、織田作之助は作中でこの坂を度々登場させていました。

寺町と呼ばれるゾーンに、この天王寺七坂はあり、口縄坂も例に漏れず、道の両側に歴史を感じられる寺が立ち並び、さらに石畳で舗装されており、非常に見応え、上り甲斐、下り甲斐のある坂です。この坂を下る最中の風景が、私が大阪で最も好きな風景です。
 
 
その上で、大阪以外にも有名な坂は存在しており、まずは北海道小樽市の船見坂

小樽駅から小樽運河につながるメインルートの北側にある坂で、最高勾配15%のため、見晴らしが良く、坂の上からは小樽の街並みや赤煉瓦の倉庫が並ぶ小樽運河、そして停泊する船、そしてその先に拡がる石狩湾を見ることが出来ます。

数年前に旭川で仕事があった際に、少し足を延ばして小樽まで移送し、回転寿司を食べてきました。さすがは本場。私の好物の魚卵系の寿司のネタが超デカい。そして超新鮮。

寿司と言えば、北海道と同様に寿司で有名な石川県で、割と高めの寿司屋に行きました。

そこで色々な握り寿司を食べましたが、薄茶色で、魚では無さそうで、少しねっとり感があり、とは言え簡単に噛み切れた、何かの寿司が人生で一番美味しかったです。

しかしながら、弊社のミスにより、得意先様と一緒に現場入りしており、寿司屋ではその得意先様と同席で食べたので、寿司屋の大将に「これは何?」とは聞けず、現在でもあの超美味しかった寿司ネタが何なのか分からず仕舞いです。
 
 

353-1.png

2026/07/29
オッサンの今昔ノスタルジー 3
物事には「圧倒的に今の方が良い」「圧倒的に昔の方が良い」「今も昔も変わらない」の3つに分類されると言った中で、
 
 
カメラ界隈は「今も昔も変わらない」に分類していると思っています。

昭和時代の通信機器である携帯電話やPHSにもカメラ機能はあり、画素数が驚きの130万画素。iPhoneが4800万画素数なので、今と比べると、画質は非常に荒いものでした。そのため、主流は使い捨てフィルムカメラで、フィルム式なので、今のように画像加工も出来なければ、撮影できる枚数に制限もありました。今に比べれば不自由にも思えるフィルム式ですが、今のようにデータとして機械内部やクラウドで保存されることはなく、実物に現像されるため、家族団欒の際などにアルバムを広げ、皆で見ることがあり、そういった背景を考慮すると、昔の方が若干、良かったようにも思えます。
 
 
喫煙界隈では、正直なところ、現状の厳しすぎる規制に四苦八苦していますが、正直な話、「圧倒的に今の方が良い」と思っています。

確かに昭和時代は喫煙に関して寛容で、令和時代の喫煙者のように日陰者扱いをされることはありませんでした。しかしながら、昭和時代は先述したように電車でも地下鉄でも新幹線でも喫煙が可能で、まさかの飛行機でも喫煙すら可能でした。その他、市役所や学校の教室でも喫煙することがあり、病院の待合室でも普通に喫煙していたようで正直、今の時代の感覚では、喫煙者の私ですら驚くレベルで、それを考慮すると、喫煙界隈では「圧倒的に今の方が良い」と思っています。
 
 
ゲーム界隈では、ネット環境の設備や爆発的な画像の進化などがありますが、「今も昔も変わらない」に分類していると思っています。

確かに表面上は今のゲームの方が面白そうではありますが、その今のゲームの大半が昔のゲームの焼き増しとなっており、画質の向上・オンライン化・・・以外の進化はほぼ無く、逆に昭和時代~平成時代の、新機軸のゲーム機がどんどん登場していき、今までになかったゲームが登場していく進化の過程を少年期~青年期に体感できていたため、割と「圧倒的に昔の方が良い」寄りの「今も昔も変わらない」と思います。しかし、オッサンになるとゲームをする機会が減ってきており、ゲーム界隈に関しては、割と語る舌が無い状況ではあります。
 
 

352-1.png

- Topics Board -